首里城の歴史
写真資料提供:(一財) 沖縄美ら島財団、那覇市歴史博物館、沖縄県
いま振り返る、首里城の歴史
目が覚めるような美しい朱色に、荘厳な佇まい。琉球王国時代の王城であり、政治、文化芸術、祭祀などすべての分野の中心を担った首里城は、沖縄のシンボル的存在として親しまれてきました。正確な築城年や築城主はわかっていませんが、琉球王国が成立する以前の14世紀末ごろまでに創建されたとみられていて、沖縄の歴史やあゆみを伝える上でも重要な建造物の一つです。実は首里城は、琉球王国時代に3度、沖縄戦も含めこれまでに計5度、焼失しています。しかし、その都度、首里城の再建に全力を挙げた人々の熱意や努力があって、現代までその姿を残してきました。2019年10月に起こった火災は人々に衝撃や悲しみを与えましたが、国内外から復興に向けた寄付が集まり、また多くの人々がボランティア作業に参加するなど、その支援の輪は広がり、2022年11月に首里城の正殿再建が本格着工。現在は2026年の完成を目指し、復元に向けた作業が進められています。
年表で見る琉球王国の中心として
1429年の琉球王国成立から、1879年に最後の国王尚泰が明治政府に明け渡すまで、約450年に渡って繁栄した首里城。日本や中国の様式を取り入れながら琉球独自の様式で創建されました。琉球王国最大の木造建造物である正殿は、国王自らが政治や儀式を執り行う中心的な場所。南殿は日本的な儀式や薩摩藩の接待所として、北殿は王府の中央行政庁であり、中国皇帝の使者「冊封使」を接待する場として使われました。首里城の歴史は琉球王国の歴史そのものとも言われています。
戦前の首里城と沖縄戦
廃藩置県が行われ、琉球王国が沖縄県となった1879年、琉球王国最後の国王となった尚泰は、明治政府に首里城を明け渡しました。その後は、陸軍の兵舎や学校として使用され、1923年には解体撤去が予定されていましたが、熱心な研究者の尽力によって文化的価値が認められ、直前に取り止められました。1925年には国宝に指定され、1930年代には大規模な修繕が行われるなど、ますます文化的価値を高めていった矢先、第二次世界大戦が勃発。1945年の沖縄戦によって、全焼しました。
平成の復元と世界遺産登録
戦後、首里城跡地は琉球大学の学舎として使用されていました。しかし段々と首里城復元の構想が強まり、1986年に国営公園として復元整備することが閣議決定され、本格的な復元工事「平成の復元」が始まりました。沖縄の本土復帰20周年となる1992年11月、正殿と瑞泉門などが復元完成し、首里城公園の一部が開園しました。2000年には首里城正殿の土台となる基壇遺構が、沖縄県内の9つの城跡や建造物とともに世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つに指定され、その年にあった九州・沖縄サミットにおいて各国首脳の夕食会が開催されました。
首里城年表
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中山王察度(ちゅうざんおうさっと)が、初めて明に使者を送る。
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尚思紹(しょうししょう:尚巴志の父)が中山王(ちゅうざんおう)になる。
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龍潭(りゅうたん)を掘り、庭園を整備した。
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尚巴志(しょうはし)が、三山(さんざん)を統一する。「琉球王国」が成立する。
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志魯・布里の乱により首里城が全焼する。
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守礼門が建立される。
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失火により正殿や
そのほかが全焼する。 -
再建が始まり、瓦葺に改められる。
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再び炎上し、正殿・
北殿・南殿が消失する。 -
首里城が再建される。
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海軍提督ペリーが
那覇に来航する。 -
廃藩置県の御達書を手渡され、首里城を明け渡し、沖縄県となる。
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首里城正殿が国宝に指定。
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沖縄戦により焼失
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首里城跡に琉球大学が開学する。
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首里城公園の一部が開園する。
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九州・沖縄サミットにて晩餐会を開催する。
首里城跡を始め9つが世界遺産に登録される。 -
国営区域すべての復元が完了する。首里城正殿含む7棟が焼失する。
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正殿が起工する。