INDEX
琉球王朝時代から育まれた焼物
自然との共生を思わせる力強い存在感
「やちむん」とは、沖縄の言葉で焼物のこと。ぽってりと厚い形状に力強い絵付けがなされた器や壺は、沖縄の人々の暮らしに深く根付いています。
やちむんの歴史は古く、沖縄では6600年前に土器が作られたと言われています。15世紀に入ると、朝鮮、タイ、ベトナム、日本などから陶磁器を輸入するようになり、沖縄の製造技術も向上。1682年には、琉球王府が県内に分散していた窯場を那覇市壺屋に統合し、これが壺屋焼の始まりとなりました。
現在も壺屋は「やちむんのまち」として知られ、数多くの工房がやちむんを制作しています。ただ、1960年頃から登り窯による煙害が指摘されるようになり、多くの陶工がガス窯に転換しました。そんな中、登り窯にこだわりを持つ一部の陶工は、工房を壺屋から読谷に移し、登り窯での製作を続行。以降は読谷でも壺屋焼のやちむんが作られています。
琉球の彩りあふれる染織物
伝統的染織物の宝庫・沖縄
沖縄に染織の技術が伝わったのは、琉球王国時代の14~16世紀頃。以降、県内各地で地域ごとに特色のある染織物が生まれました。
中でも沖縄を代表する染色技法が「琉球びんがた」。「びん」は色、「がた」は模様という意味で、古典紅型柄の鳳凰や龍、鶴などは、中国や本土の影響を受けたと言われています。また芭蕉布は、沖縄本島北部の大宜味村喜如嘉が主な産地。糸芭蕉から繊維を取り出して糸を作り、織り上げるその手技は、国の重要無形文化財となっています。
ほかにも八重山上布や宮古上布をはじめ、首里織、与那国織、南風原町の琉球絣、読谷山花織、南風原花織、知花花織、読谷山ミンサー、八重山ミンサー、久米島紬と、沖縄全体で13種類の染織物が国指定の伝統的工芸品に選ばれています。
独自の技法で加飾された琉球漆器
琉球王国時代の献上品としても人気
琉球漆器は、14~15世紀頃に中国から伝わった漆器の技法を発展させたもので、漆の鮮やかな朱色と艶やかな黒色、表面に施された華やかな文様が印象的な逸品です。立体的な仕上がりを実現する琉球漆器独自の加飾法「堆錦(ついきん)」をはじめ、花塗(はなぬり)、沈金(ちんきん)、箔絵(はくえ)、螺鈿(らでん)など、さまざまな技法を用いて作られています。
琉球王国時代は、王府内に漆器製造を監督する貝摺奉行所(かいずりぶぎょうしょ)が設置され、首里城内で使われる道具や、中国・日本など海外に献上する器などが製造されていました。漆器の製造には適度な温度と湿度が必要ですが、高温多湿な沖縄はその条件にぴったりで、漆器作りに適した場所だったのです。琉球漆器は軽くて壊れにくく、日常使いの器にもおすすめです。
南国らしい素朴で温かみのある琉球ガラス
戦後の資源難の中、空き瓶を再生
琉球ガラスは戦後の資源が限られていた時代、米軍基地で捨てられていたコーラやビールの空き瓶を集め、溶かして再生したのが始まりです。空き瓶を使ったことで、赤色や緑色など多彩な色合いが生まれ、ガラス再生の過程で混入する気泡が、独特の涼しげな味わいをもたらしました。厚みがあるため割れにくく、扱いやすいのも魅力です。ペットボトルなどの増加により空き瓶が減った現在は、原料に珪砂・石灰・ソーダ灰などを用いる工房も増えていますが、中には今でも空き瓶を使って琉球ガラスを製造する工房もあります。
沖縄の心を三線の音色に乗せて
楽器であり、工芸品でもある沖縄の三線
沖縄の音楽に欠かせない楽器、三線。かつては親から子へと代々受け継がれ、家宝として大切に床の間に飾られていました。沖縄戦後の荒廃した沖縄でも、三線の音色が人々の心をなぐさめ、励ましてきたのです。
三線は中国発祥の弦楽器・三弦を原型に、15世紀以降の琉球王国で発展してきました。胴にはニシキヘビの皮が使われ、棹の形状によって7つの型に分類されます。2018年には国の「伝統的工芸品」に指定され、楽器であると同時に工芸品としても、沖縄文化を象徴する存在となりました。
旧暦で行われる年中行事
沖縄の生活には旧暦が欠かせない
「太陽暦(新暦)」が主流となった現代でも、沖縄には旧暦で行う行事や神事が数多く残っています。
代表的なのが旧盆。沖縄では毎年旧暦の7月13日~15日がお盆にあたり、人々はお中元を携えて親戚を訪ねあい、仏壇にお線香をあげます。期間中は沖縄本島中部を中心に、地元青年会のメンバーが太鼓を叩きながら地域内を練り歩く「道ジュネー」があり、先祖供養の踊りを披露する「エイサー」も行われます。
また、糸満市など漁業の盛んな地域では、旧暦が特に色濃く残っており、正月も旧暦で祝います。元旦の早朝、漁港で縁起物の大漁旗がたなびくようすは壮観です。
そのほか、旧暦3月3日に女性が浜で身を清める浜下り(ハマウリ)、旧暦3月に親戚が集まって墓前で先祖供養を行う清明祭(シーミー)、旧暦5月4日に行う豊漁祈願の爬竜船競漕・ハーリー(ハーレー)、旧暦9月7日に97歳の長寿を祝うカジマヤー、旧暦12月8日に餅菓子を食べる鬼餅(ムーチー)など、沖縄には数多くの旧暦行事が残ります。沖縄の生活は、今も旧暦と密接に関わっているのです。
沖縄で継承され、新たに生まれる音楽たち
古典から民謡、沖縄ポップスに洋楽まで
古くからの沖縄の音楽には、宮廷音楽として継承されてきた琉球古典音楽と、庶民が親しんできた民謡があります。琉球古典音楽は琉球王国時代、中国からの使者である冊封使をもてなすために宮廷で演奏されたもの。一方、民謡は庶民が生活の中で歌ってきたもので、地域ごとに多種多様なうたが残っています。沖縄では、現在も日々新たに新作民謡が生まれ、ラジオやテレビでも民謡番組が放送されるなど、民謡は県民の生活に密着した存在であり続けています。
また沖縄では、戦後アメリカの統治下にあった影響から、ロックやジャズも独自のスタイルで発展しました。沖縄独特の「琉球音階」をメロディに使い、洋楽器でアレンジした「沖縄ポップス」も、県内外で確固たる一ジャンルを築いています。加えて1990年代以降は、沖縄出身のアーティストがJ-POPシーンで活躍。現在も沖縄は、多彩な音楽に満ちた「うたの島」なのです。
琉球王国の文化を受け継ぐ琉球舞踊と組踊
中国からの使者をもてなした舞台芸能
琉球舞踊は、三線や箏などの楽器と歌からなる琉球古典音楽に合わせて踊られるもので、2009年に国の重要無形文化財に指定されました。主に宮廷内で踊られていた古典舞踊、庶民の暮らしや思いをテーマにした雑踊(ぞうおどり)、戦後舞踊家により新たに作られた創作舞踊の3種類に大別されます。
また「組踊(くみおどり)」は、方言(うちなーぐち)のせりふ(唱え)と音楽(琉球古典音楽)、琉球舞踊が一体となった沖縄独自の歌舞劇です。18世紀初頭、冊封使を歓待するために創作されたのが始まりで、廃藩置県で琉球王国が消滅した後は、庶民の娯楽として継承されてきました。2010年にはユネスコ無形文化遺産に認定されています。
沖縄から世界へ広がる空手の文化
オリンピック種目にもなった空手
2020年東京オリンピックで正式種目となった空手は、琉球古来の武術「手(ティー)」と、14世紀ごろに中国から琉入した中国拳法が結びついて生まれたと考えられています。その技は「唐手(トーディー)」と呼ばれ、琉球独特の文化的風土の中で発展していきました。ただ、唐手は琉球士族のたしなみであったため、廃藩置県で琉球王国がなくなると、伝承の危機に直面します。
しかし、唐手の大家・糸洲安恒(いとすあんこう)の尽力により、急所を狙う危険な技を除いた「唐手(からて)」が確立されました。大正から昭和にかけては、沖縄県外でも急速に唐手が普及。1957年にはスポーツとしてのルールを定めた史上初の全国大会が開催され、競技空手が発展していきました。
沖縄では第二次世界大戦後に空手道場が増え、全県に普及。県民だけでなく、空手に興味を持った米軍人らも道場で修行し、帰国後に自国で道場を開くようになりました。そうして空手は世界へと広がり、現在では世界190か国余りに約1億人の空手愛好家がいると言われています。
古民家で島の生活に触れる
自然と共生する開放的な住空間
沖縄の伝統的な家屋は台風対策のため、家の周囲が珊瑚や石灰岩などを積んだ石垣で囲まれており、屋根の赤瓦も漆喰でしっかりと固められています。門には扉がなく、代わりに門の奥に「ヒンプン」と呼ばれる目隠しの塀が配置されています。これは風の直撃を防ぐのと同時に、目隠しの役目を果たしています。
ヒンプンを回り込んで敷地の中に入ると、開放的な空間が広がります。母屋(うふや)には玄関はなく、大きな縁側から出入りするのが一般的。また、母屋の縁側には大きく張り出すような「雨端(あまはじ)」という庇があり、直射日光や雨が直接屋内に入り込むのを防いでいます。
厳しい自然との共生を前提にした建築と、区切りや仕切りを感じさせないおおらかな住空間。それこそが沖縄民家の特色であり、魅力のひとつと言えるのかもしれません。