連載・おきなわ41物語/健康長寿の里 大宜味村
- 掲載日:
- 2023.12.19
41、それは沖縄県にある市町村の数です。
本連載「おきなわ41物語」では、41市町村のイマの魅力を現地ライターが独自取材。
地元民しかしらない地域ならではの魅力や穴場スポット、とっておきの寄り道グルメなど、沖縄をもっともっと好きになってしまうような、唯一無二の旅のアイデアを紹介してまいります。
41の物語とともに、新しい沖縄を再発見してみませんか?
今回訪れたのは、教育・歴史文化の輝く健康長寿村「大宜味村」
「長寿の里」「芭蕉布の里」「シークヮーサーの里」「ぶながやの里」として知られる大宜味村。中でも健康長寿村として、豊かな自然の恵みを活かした伝統ある食文化などが、沖縄県外、または海外からも注目を集めています。
大らかな自然に囲まれた大宜味村はまさに「沖縄の桃源郷」かもしれません。
INDEX
| Access |大宜味村までの行き方
西は東シナ海に面し、東は沖縄本島を二分する脊梁山地を境として東村に接し、北は田嘉里川をもって国頭村に、また南は山岳帯の分水嶺をもって名護市と接しており、東西8㎞、南北13.3㎞、総面積63.55平方キロメートルの県内9番目の広さです。
車またはレンタカーの場合
那覇市から北へ87キロメートル、国道58号を通って約2時間、高速を利用して約1時間30分。
名護市街(市役所)から22キロメートル、約30分。
路線バスの場合-
那覇市から名護バスターミナルまで、20番系統名護西線で約2時間。
名護バスターミナルから、役場前(大兼久バス停)まで67番系統辺土名線で約45分。
(沖縄バス・琉球バス)
| interview |新たな発見がある、おすすめの目的地を教えてください
「沖縄の桃源郷」と言われる大宜味村ですが、今回は、THE大宜味村!というコンテンツだけでなく、まだ誰も知らないような大宜味村や、有名な観光スポットでも「そんな楽しみ方があったんだ!」という驚きのある場所も紹介したい!今回は地域を知り尽くした大宜味村観光協会のみなさんに、ズバリこんな質問をしてきました。
「新たな発見がある、おすすめの目的地や新しい楽しみ方を教えてください」
この問いに答えてくれたのは、大宜味村観光協会 会長兼事務局長の大﨑さん。
「大宜味村は長寿の里と言われていますが、大宜味には17の集落があり、ほとんどすべての集落に、山、滝、川、海、里(集落)があります。そういった自然環境であったりだとか、共同売店の文化であったりだとか、いろんな要因が重なって結果として長寿になっていると思います。それを知っていただくことが一番嬉しいです。」と語る大﨑さん。
では、大宜味村の健康長寿の秘密について一つ一つ掘り下げて行きましょう。
健康長寿の秘密① 17の行政区に共通する特徴とその理由
大宜味村の17の行政区の区割りは、下図のようにうなぎの寝床のような配置になっています。なぜこんな区割りになっているのか大宜味村役場 村史編纂係のみなさまにお聞きしました。
なるほど!ずいぶん昔からこの区割りになっていたのですね。ではその豊かな自然環境を喜如嘉行政区で見てみましょう。
大宜味村立 芭蕉布会館
芭蕉布は、沖縄の織物の中でも最も古い織物で、13世紀頃には織られていたと伝えられています。沖縄本島北部・大宜味村喜如嘉(おおぎみそん きじょが)は昔から芭蕉布の産地として知られており、国指定重要無形文化財に指定されています。芭蕉布会館は、後継者育成を目的とした施設で、伝統を受け継いでいる人たちの共同作業場にもなっています。また、その貴重な技を垣間見ることができる県内唯一の場所として、芭蕉布の制作工程のビデオや作業風景を身近に見ることができます。
- 住所
- 大宜味村 喜如嘉454
- TEL
- 0980-44-3033
健康長寿の秘密② 大宜味村ならではの食材を生かしきる調理法や保存法
健康長寿の秘密①では、大宜味村内の17の集落ほぼすべてに、山、滝、川、海、里(集落)があり、そのような素晴らしい自然環境を活かして生きてきた大宜味村の生活スタイルが垣間見えました。
ここでは、もう一歩踏み込み、戦争や食糧難を経験し、つくらなければ食べられない時代を大宜味村で過ごしたおばぁ(沖縄の方言でおばあちゃん)たちが、実践してきたやんばる・大宜味ならではの食材を生かし切る調理法や保存法を紹介します。
笑味の店店主であり、大宜味村の豊かな食卓を記した「おばぁたちの台所」の著者でもある金城笑子さんにお聞きしました。
長寿県沖縄を育てた主食「ウム(さつま芋)」
芋は、第二次世界大戦後もしばらくは主食として食べられていました。保水性が低い土地でも育ちやすく干ばつに強いこと、地中に茎・芋ができるので台風被害から守られることから、沖縄に適していたと思います。大宜味村では一年中畑で育て、畑を貯蔵庫にして、その都度食べる分だけ収穫していました。
さつま芋といえば、今ではおやつのイメージがありますが、主食として食べられていた頃のものは今のように甘くないので、おいしく食べるためのおかずが肝心でした。一番良かったのが、野菜がたくさん入った味噌汁です。今でも沖縄の味噌汁は具だくさんなのですが、それは主食に芋が食べられてきたからだと思います。他にも汁気の多いおかずが芋には良く合います。
芋は、お腹を満たすだけでなく栄養面でも沖縄の人々を支えてきました。熱に強く壊れにくいビタミンCをはじめ、ビタミンE、βーカロテン、そして食物繊維を多く含み、また、紅芋の紫色はアントシアニン(ポリフェノールの一種)で、強い抗酸化作用があります。私は、沖縄の元気な長寿者を育てたのは、主食として食べられてきたさつま芋だと思っています。
生活を支えたのは、目の前にある海の恵み
海に面した大宜味村は、かつて漁業が盛んでした。平坦地が少ないこの土地で生計を立てるには海が頼り。男たちはサバニ(舟)で漁に出て、釣った魚は女たちがタライやティール(背負い竹カゴ)に入れて一軒一軒売り歩いたそうです。サバニが大漁旗を揚げて海から戻るときは子どもも年寄りも喜んで海辺に集まって、その場で新鮮な魚を手開きにし、塩水で食べていたそうです。
亜熱帯のこの地域でとれる魚は、赤青黄色と色鮮やか。初めて目にする人は、興味は持てても食べたいとは思わないかもしれませんね。でも、大宜味のお年寄りは調理方法を工夫して、好んで食べてきました。焼き魚はあまりしませんが、刺身や煮物、汁物で、また、普段は油を節約していたものの祝い事では魚をから揚げや天ぷらにしました。
太陽が育てる島野菜
■パパヤー(パパイヤ)
パパヤーはやんばるで暮らす人にとっては、「身土不二」を体現する食材。どこの家でも庭先に1~2本は育っているのが当たり前です。パパヤーの木は、上へ上へと成長しながら、徐々に実をつけます。下の実が大きく育って収穫する頃に、上では花が咲き、それがまた実となって、というように、一本の木で時期をずらしながら一年中収穫することができます。
パパヤーの実は、青果は野菜として、熟したものは果物として食べられてきました。なんといっても、炒め物、煮物、汁物、和え物、漬物と調理法が豊富。今日のおかずはなんにしよう?と悩むときも、まずは「パパヤーにしよう!」と庭先からとってくるほどです。
■ナーベーラー(ヘチマ)
沖縄の野菜というと、ゴーヤーを思い浮かべる方が多いと思います。窓辺でゴーヤーを育てると、ツルや葉がカーテンのように太陽の日差しを遮り、涼しくなります。いわゆるグリーンカーテンです。ゴーヤーと同じように、各家庭でグリーンカーテンで育てる野菜に、ナーベーラー(ヘチマ)があります。夏になると、やんばるの家々の軒先にはナーベーラーがいくつもぶら下がり、まるで「食べて食べて!」と促しているよう。隣り近所でもらったりあげたりして行き来します。
このナーベーラーにピッタリの調理法が、ウブシー。チャンプルーやイリチーと並ぶ、代表的な家庭料理で、味噌仕立ての煮物です。甘くてどろっとしたナーベラーのドゥ汁(素材自体の水分)は味噌との相性が抜群なのです。また、茹でて冷やして和え物などにすると、見た目にも涼しい料理になります。夏のナーベーラーは、毎日食べても飽きない、暑さの中で身体が求める味です。
食べながら育てる「デークニー(大根)の一生」は生活のリズムみたいなもの
大宜味村のお年寄りは、「食べ頃と料理を考えたうえで収穫して使いこなす知恵」が素晴らしいと思います。畑を貯蔵庫にして成長に合わせて使っていくなど、自給菜園の営みの中で物を粗末にしないという心が伝わります。デークニー(大根)はその象徴的な野菜だと思います。
露地で育った貝割れから、成長に合わせて間引く葉、根は小さな頃から使い、加工して保存食までつくり出す。この「デークニー」の一生を、みなさんにもぜひ経験してほしいのです。「育てて、収穫して、いただく」ことを。また、その経験を通して、「育てなければ食べられなかった」時代を、想像してみてほしいのです。昔の生活のリズムみたいなものを。そこには心身の喜びがあります。周りの人々を元気にしてくれます。お金を出せばすぐなんでも手に入る今、食べるために、生きるために、ゆいまーる(相互扶助)で支え合って来た生活が、とても大切に思えることでしょう。
photo by hako tamura
やんばるでは、デークニーはトシヌユール(大晦日)に食べるソーキ汁、正月のなますなどに使われるため、正月に向けて必ず家庭で育てていました。最初の収穫は貝割れ。本葉が出たら、つまみ菜として、味噌汁、ソーミン汁に。さらに大きく野菜らしくなったら、塩をふってしんなりさせて、炒めていただきます。そして、実がつき始めた頃、葉も一緒に塩もみして豆腐や豚肉とチャンプルーにすると、そのときならではの食感と風味が味わえます。
デークニーは、乾燥させ、保存食材として常備もします。縦に4つ割りにして干すフシカブは、乾燥に時間がかかるので、昔はカマドの上に干し、煙と火の熱に助けてもらっていました。薪を使って調理した時代のトゥンガ(台所)は、周りの壁も天井も、煤だらけで真っ黒。でもその場所が、保存食づくりに生かされていたのです。
大宜味のおばぁたちが畑仕事を続けてきたのは、もちろん最初は食べるために必要だったからでしょう。でも、90歳になっても100歳になっても、朝夕欠かさず畑に出かけるのは、それが癒しの時間だからだと思うのです。大変だけれど育てるうちに気持ちが通じて、実ったら嬉しいし、収穫して料理すれば、食べるのが余計に楽しくなる。畑は楽園です。「大宜味村の長寿の秘訣は?」とよく聞かれますが、いつも「毎日することがあって、したいことがあることよ」と答えています。
おばぁたちの台所
やんばるでつないできた 食と暮らしと言葉の記録
この本は、私が目にし、耳にしたおばぁ、おじぃの暮らしとごはん、そこから教わった大宜味村の食文化の記録です。大宜味村のおばぁ、おじぃの手が紡ぎ出す、自然の理にかなった豊かな食卓。そこには、これからを生きるための、小さな光があるように思います。この記録が、読んでくださる方の、日々の暮らしと食べること、つくることの手がかりになれば幸いです。(金城笑子)
【著者】金城笑子
【写真】田村ハーコ
【構成・執筆・編集協力】しまざきみさこ、黒川祐子、大島佳子
【出版社】グラフィック社
健康長寿の秘密③ 共同売店の助け合い文化
モノが少ない時代、やんばるや離島の暮らしを支えた共同売店
今ほど流通制度や交通機関が整っていない時代は、ちょっとしたモノを買うのもひと苦労。自家用車でひょいっとスーパーへというわけにはいきません。そこで集落単位で各家庭が共同で出資して運営を行う、生活協同組合のような組織体が明治の終わりに生まれました。沖縄県内で最初の共同売店は、国頭村奥に誕生した「奥共同売店」。単なる商店というよりも、むしろ「コミュニティビジネス」というイメージが近く、例えばやんばるの山から切り出した薪や木炭などを船で与那原・那覇などの都市部に運んで売り、利益を出荷量に準じて分配したり、帰りに仕入れてきた食品や日用雑貨を集落の人々に販売したり。商品は売掛(ツケ)で買えて現金収入があった時に払えば良いなど、お互いによく知っている間柄だからこそ可能な助け合い精神で切り盛りされる企業のようなものでした。
共同売店発祥の地「奥共同店」
国頭村の奥は、沖縄本島最北端の集落。緑生い茂る山の裾野には古い赤瓦屋根の民家が密集しており、訪れる者をノスタルジックな気分にさせてくれます。ここは共同店制度を始めたいちばん最初の集落。1906年創業だそうです。
奥で共同店が始まったきっかけは、1904年に起きた大旱魃と日露戦争勃発による増税。集落の人々は力を合わせて木々を伐採して生活物資と交換、また那覇まで船で運んで販売しました。それが発展し、やがて製茶・精米・酒造などの事業も行うようになり、さらには金融業にまで手を広げたのだそうです。共同店とはただの商店ではなく、集落の人々みんなで出資して経営する会社のようなものだったのです。
奥はお茶どころですから、茶葉売れ筋商品だそうです、特に人気があるのは『奥みどり』。あと季節限定で販売している紅茶も好評とのことです。
地産地消を地でいく喜如嘉共同店
大宜味村内の共同売店は、最盛期には約20軒あったのですが、現在は6軒まで減っています。基本的には、「集落の住民が設立し、運営している店」ですが、現在は運営形態も様々になっています。そんな共同売店ですが、昔の助け合い精神が垣間見える喜如嘉共同売店を見てみましょう。
芭蕉布(ばしょうふ)の里として名高い大宜味村喜如嘉(きじょか)。集落のあちらこちらで見かけるリュウキュウイトバショウの畑は、この織物の材料です。
静かな佇まいを見せる集落の中ほどにあるのが「喜如嘉協同店」。生活必需品を求める地元の人々が絶えない繁盛店です。取材中もパンをしこたま買う女性、仕事帰りにお酒と煙草を買う男性、電池を買いに来た親子など、ひっきりなしに客が訪れています。
店には食料品をはじめ、雑誌や雑貨、嗜好品に加えて肥料や季節の草花まで販売しています。コンビニに引けを取らない品揃えです。店には他に、地元で採水されたミネラルウォーターや、お菓子や味噌などの加工食品など喜如嘉産の珍しい商品が並びます。観光客が買い求めると思いきや、意外にも地元の方が買っていくのだそうです。
売れ筋は月桃の石鹸で、普通の石鹸に比べて肌に優しくて好評とのこと。地産地消を地でいく現在の喜如嘉共同店です。
| model course |紹介スポットも回れる、とっておきの旅プラン
【大宜味村】大宜味の自然・工芸・歴史文化を体感する2泊3日の旅
自然豊かな大宜味村に残る歴史・文化を体感
17の行政区ほぼすべてに山、滝、川、海、里(集落)がある大宜味村。里(集落)では、戦争や食糧難を経験し、つくらなければ食べられない時代を大宜味村で過ごしたおばぁ(沖縄の方言でおばあちゃん)たちが、実践してきたやんばる・大宜味ならではの食材を生かし切る調理法や保存法があります。また、山と里(集落)の境目には、猪垣を築き、畑地へのヤマシシの侵入を防ぎ、畑を守ってきた、大宜味村民の先祖の歴史が刻まれています。そんな大宜味村に残る歴史・文化を体感する2泊3日の旅です。
| 編集後記 |おきなわ物語編集部
大宜味村は長寿の里とよく言われますが、今回はその理由について少し踏み込んで取材をし、大宜味の大自然の中で、集落の成り立ちや工夫をこらした食生活や地域の触れ合いをはじめとした様々な要因が重なり合った結果、大宜味の健康長寿が成り立っているということが良くわかりました。物のない時代、食べていくために自分で作り、大事に食べ・保存し、お互いに助けあいながら暮らしてきた人たちと、それを可能にした自然があったということだと思います。そのような時代背景や先人の苦労の歴史をふまえた上で、大宜味を旅していただくと、また違った味わいになるのではないでしょうか。大宜味村を訪れるみなさまが、豊かな人生を送っていくためのヒントを見つける旅になればと思いました。
| comment |大宜味村観光協会からのメッセージ
大宜味村観光協会
大宜味村で豊かな時間を味わっていただきたい
大宜味村の住民たちはお互いに助け合いながら、周囲の人々や自然と調和しながら共存しています。その特別な雰囲気は、懐かしさを感じさせ、異日常の空気が漂っています。大宜味村でのんびりとした時間を過ごすことで、その魅力を最大限に感じることができます。ぜひお越しの際は、豊かな時間を味わっていただきたいと思います。
1609年から行われた慶長検地により、現在の行政区域のもととなる村(ムラ)が形づくられたと言われています。そして、それぞれの区域に海、住む場所、畑地、山が配置されるように横割りの区域になったと思われます。
また、猪が耕地への侵入を防止するため猪垣(ヤマシシガキ)が村全域に築かれていました。当時の人々は責任をもって構築と補修や改修をしてきたことから、猪垣には先人たちの知恵と工夫が現れていると思います。
大宜味村役場 村史編纂係