開闢(かいびゃく)神話
神が降り立った島々
琉球の開闢(かいびゃく)神話には諸説ありますが、最も有名な伝説は、アマミキヨという神が、ニライカナイ(神の世界)から降り立ち国づくりを始めたというものです。アマミキヨは島々をつくり、一組の男女を住まわせ、二人の間からは三男二女が生まれました。
その舞台とされているのが県南部に位置する久高島。アマミキヨは七御嶽(うたき)を作ったとされます。御嶽とは神が訪れる、あるいは先祖神を祀る場所。島の中央の西側にその一つであるクボー御嶽があり、久高島第一の聖域といわれています。
久高島の中ほどにあるイシキ浜には、五穀が入った壷が流れてきて、それから久高島、沖縄本島へと穀物が広まったとされる伝説があります。この浜は、今もニライカナイに面する聖地となっており、ここから祈りを捧げる祭祀の場となっています。
久高島以外にも、神が降臨したと言われる場所があります。浜比嘉島は、ニライカナイから、アマミキヨとシネリキヨという男女神が降りてきたと伝わる「神の住む島」です。
アマミキヨとシネリキヨは、古事記のイザナギとイザナミにあたるといわれます。二神は子を授かって洞窟に暮らしました。その子孫が人間として繁栄したのです。洞窟はシルミチュー霊場として祀られていますが、神話にあやかり、子宝を望む参拝客が訪れています。
琉球王朝
薩摩藩侵攻後も交易は栄え、琉球文化は隆盛を極める
平安時代(10世紀頃)までの長い間、狩猟採取の生活が続いてきた沖縄ですが、12世紀には農耕社会となり、15世紀に入り当時の三つの勢力が統一され(三山統一)、琉球王朝が興りました。琉球は海洋国家としての発展を遂げていきます。
中国をはじめ、東アジアや東南アジア、朝鮮、日本にいたる周辺諸国と積極的に交易をおこない、「大交易時代」とよばれる時代を築きました。その後、琉球は、1609年の薩摩藩の武力侵攻により、内実は支配下に置かれることになりますが、諸外国との交易は続き、江戸時代の日本や中国の文化を吸収しながら、独自の琉球文化を形成していきます。
1879年、明治維新の余波を受けた琉球王朝は、最後の王・尚泰(しょうたい)の代で幕を閉じ、沖縄県となりました。
戦後は米軍の統治下に置かれるなど、複雑な歴史を歩んできました。その複雑かつ豊かな歴史が残した文化は、現在の沖縄の中に見ることができます。
1992年に開園した「首里城公園」の城外には守礼門など2門あり、琉球石灰岩の切石を積み上げた城壁には歓会門や瑞泉門、白銀門などの城門が設けられました。内郭には百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)とよばれる正殿と、その前面左右に南殿、北殿が相対して建てられています。2000年12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。
また琉球神話の源である神、アマミキヨが創ったと伝えられている斎場御嶽もそのひとつ。
6つの神域があり、最高位の女性神官・聞得大君の即位式が行われた大庫理(うふぐーい)や、三庫理(さんぐーい)は見逃せません。
戦争と平和
大戦の爪あとが残る沖縄で平和を祈念する
第二次世界大戦の激戦地となった沖縄は、多くの犠牲者を出しました。日本で唯一の地上戦が繰り広げられたのです。
それは、約3か月にわたって民間人も容赦なく巻き添えにするような激しいもので、銃弾や砲弾が雨のように降り注いだことから「鉄の暴風」と呼ばれるほどでした。
特に沖縄戦で多くの方に知られているのが「ひめゆり学徒隊」ではないでしょうか。
「ひめゆり」とは、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の愛称でしたが、ここで学ぶ女学生たちは沖縄陸軍病院に動員され、負傷した兵士の看護などにあたりました。最終的には教師・学徒240人のうち136人が亡くなり、彼女たちの鎮魂の慰霊碑「ひめゆりの塔」が建てられました。
また、那覇空港から一番近い戦跡地にある旧海軍司令壕は、沖縄戦において大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕。カマボコ状にくり抜いた横穴をコンクリートで固めたもので、当時は450mの防空壕に4000人の兵士が収容されていたということです。手榴弾で自決した破片の痕などが生々しく残り、その悲惨さを伝えます。
1945年に日本が降伏し、沖縄はアメリカの軍政下に置かれましたが、本土復帰が叶ったのは、敗戦から27年後の1972年のことでした。
しかし、現在も沖縄には日本全体の約75%の米軍専用施設があり、さまざまな問題が残されています。
沖縄には、沖縄平和祈念資料館や平和の礎など、いくつもの平和を祈念する場や、戦争の爪あとが残る数々の施設があります。
これらの場所では、戦争の悲惨さ、愚かさを知り、二度と繰り返してはならないという思いを新たにし、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する「沖縄のこころ」に触れることができます。